われわれは現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。
過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。

アラン





 月夜である。

 霞が空を流れ、暗闇の向こうで月が笑っている。
「うああぁぁぁあッ!」
 咆哮と共に突き出した片腕が、風を捲き込みながら虚空を寸断する。
「ははははははははは!」
 哄笑を撒き散らしながら『その男』は顎が地に着くほど姿勢を下げて、槍の
ごとき鋭い刺突をかわすと、低姿勢のまま懐に踏み込んでいく。
 身の危険を感じるよりも早く、咆哮をあげた少年は横に跳躍していた。
 地を這うような低姿勢、直進はできても、瞬時に横へ対応するのは体勢的に
無理に近い。
 が、常識が通用する相手ではなかったことを失念していた。その男は『本来
なら』、そう、本来ならカーブで曲がりきれず転倒しているはずの体勢から、片
足の裏で地を蹴り飛ばし、こちら側に跳躍してきた。無理矢理に、軌道を修正
してきた。

 いつからだろう。こんなことになってしまったのは。
 いつからだろう。昔を、幸せだと感じるようになってしまったのは。
 いつからだろう。もう一度、昔に戻れたらと願ってしまうようになったのは。

 圧倒的な暴力が睥睨する先にいる。
 空≪カラ≫になったこの脳裏にうかぶのは、優美な言葉と記憶。
 どんな言葉だったのか、今は思いだせない。
 そして笑顔。
 笑っていた。屈託のない笑顔で。
 必要だったのだ。
 必要だったのに。
 必要だったから。
 だからこそ、こいつは認めない、受け入れない、相容れない、許容しない、
享受しない。絶対的に拒絶する。
 絶対的な脅威の塊がすぐそこまで押し寄せてきている。

 ――俺はお前を認めないっ。

「ぅっ――があぁぁ!」

 悲痛な獣の短い咆哮が、月明かりが照らす草原をどこまでも悲しく、虚しく
轟き伝っていく。



                       〜 † 〜




 ――湿った土の匂いが鼻孔を刺激した。

 世界が色を失ったみたいに灰色が周囲を満たしていた。空間の上下感覚が戻
ってくるまでしばらく時間を要し、ようやく今の自分は土に寝そべっているの
だと気がついた。上体を起こす。
「――こ――だ」
 今のは自分の声だったのか。
 荒野を吹き抜けていく渇いた風みたいな、ざらざらとした痛みが喉を撫でる。
がらがらな喉を確かめる意味合いで、彼はもう一度言葉を吐き出す。
「ここ……は?」
 今度は聞こえた。はっきりと聞こえた。多少、咽の違和感は残っているにし
ても、声を出すことができた。が、彼はその声が自分のものだとすぐには自覚
できなかった。まるで他人の声をすぐ耳元で聞かされているような。自分の声
を録音したテープレコーダーを通してもう一度聞かされたような。うまく噛み
あわない違和感に彼は苦々しい顔をうかべる。
 立ち上がろうと手をついて、「っつ」と小さな呻き声が洩らす。

 ――なんだ?

 左腕の手の平から肘にかけて、針でも突き通されたような痛痒が走り抜ける。
痛みは瞬間的なものですぐに消えた。記憶として左腕に未だ残留している痛覚
に戸惑いを覚えながら左手に目をやり、
 息を呑んだ。
 左腕は、ある。
 確かにある。間違いなく、自分の左手だ。指も四本になっているわけでも六
本になっているわけでもなく、五本ある。動く。しかし、

 ――なんだ、これ。

 見慣れないものがあった。
 見覚えがないのではなく、見慣れないもの。はたして『モノ』と形容して正
しいのか。
 太さも細さもまばらなミミズが――びっしりと肘から指の先まで埋め尽くし
ていた。
 悲鳴をあげるよりも鳥肌が立った。身震いもした。生理的な嫌悪感から吐き
そうにもなった。反射的に左腕を右手で払った。なんだよこれ、離れろ、離れ
ろ、離れろ!
 ミミズは離れなかった。というより、『それ』はミミズではなかった。
「なんなんだよ……これ」
 気味悪さに声を震わせて、左腕をそっと撫でてみる。
 痣だ。色がないからはっきりとは見て取れないが、痣のようなもので間違い
ないと思う。触れてみても痛みはない。いつのまにこんな痣がついたのだろう、
 咄嗟に、彼は右手を見た。痣はない。ほっと安堵する。一応、泥だらけにな
ったジーパンの裾をめくって脚も確認してみるが、両脚には目立った痕跡は見
当たらなかった。 まったく、どうやってこんな痣がついたのだろう。大きな
痣がひとつあるのなら理解できる。だが、小さな痣が同じ箇所に集中している
のは理解しがたい。わざと狙って何かにぶつけでもしない限り、こんなことに

 待てよ。
 疑問に行き当たる。
 痣がついた? ついた? ついたのだろうか。本当に?
 最初から痣はあったんじゃないか。最初からあった。最初からあったなら、
なんで『最初から痣はあった』と憶えていないんだ。どうして憶えてない。何
を憶えてない。もうひとりの自分が急かす。早く思い出せ、じゃないと大変な
ことになる。何に急かされているのか。何で慌てる必要があるのか。眉間の奥
に熱がある。熱は拡散していき、
じりじりと頭の中心を焼く。最初、そう、最
初だ。最初の自分はどうだった。
最初は赤ん坊だ。馬鹿かお前は、何を誰でも
知ってることを考えてる。親は誰
だ? 兄弟はいたか? 学校は? クラスは?
友人は?

 そもそも年齢は?
 おまえは――

 オマエハ、ダレダ。

 記憶は、繋がっている。連鎖ともいうべき構造≪メカニズム≫をもって構成
されている記憶は、ひとつの事象・事柄を思いだすことで、連動して他の記憶
に連結していき、別の記憶を甦らせる。
 それはひとつの糸。そしてその糸は直接的ではなくとも、間接的にすべての
記憶という鐘に繋がっていて、糸を引き、鐘を鳴らすことで記憶を紡ぐ。
 そう。とっかかりとなるはずの、始まりの糸が見つからない。何かを思いだ
そうとしても、何から思いだせばいいのか分からない。その『何か』は見失っ
てしまっているだけなのか、そもそも最初から存在すらしていないのか。どす
暗い海の底で、何かあるはずだと自分が無闇に手探りをしている。
「ぼくは――おれは――」
 僕? 俺? どっちだ。自分はどんな人間だった。自分はどんな人間なんだ。
 頭を抱える。抱えることで何がどうなるわけでもなかったが、彼は頭を抱え
た。何も変わらない。何も起こらない。自分の身体が地に堕ちていくのを感じ
る。
 辺りを見回す。灰色。暖かさも冷たさも感じさせない。無情な色。停滞の色
合い。
 自分だけが取り残されているような孤独感が津波となって押し寄せ、胸中を
さらう。
 頭上でかさかさと擦れ合う音がする。ゆっくりと顔をあげた。世界はあいか
わらずの灰色。目が正常に戻ってきたからだろうか、それとも状況を把握する
時間を設けたからなのか。梢が鳴いていた。木々の葉が、密集した雲さながら
に空を覆い隠し、わずかな隙間から差し込んでくる月明かりは、木漏れ日のよ
うに穏やかでやわらかく、暖かかった。
 さぁっ、と風の音が聞こえた。風は曲を奏でる。木々が謳う。さらうように
髪がなびき、下草が舞い流れ、湿った土の香りが世界を満たす。

 懐かしい感覚が甦る。

 どこの記憶だろう。

 思いだせない。
 けれど想いだせる。

 ボクは――

「――ボク?」

 なぜだろう。妙に馴染む響きがあった。

 気づけば、風は止んでいた。
 梢の擦れる音も、まるで一時の夢だったかのように消えてしまい、静寂だけ
が残されている。
 しばし静寂に身を晒し。
 根拠はないのだが。とりあえずこの場を動かなければいけない気がして、彼
は両手で地を押して立ち上がった。左腕に痛みはなかった。すっかり土の湿気
を吸って濡れてしまったズボンの尻を叩きながら、彼は周囲を視線を巡らせる。
 何かを期待したわけでもなかったのだが。偶然、なのだと思う。木々の幹を
隔てた向こう側に、家の形をしたシルエットを見つける。
 遠目に見て、それは不思議な建物であり、そこは不思議な空間であった。
 建物は小屋だった。ちょうどキャンプ場なんかで見かけるガレージに似てい
る。建物を中心に円環に開けたこの空き地にだけ月明かりが降り注いでいる。
 仰げば、月がのぞいていた。厭な笑いをうかべた三日月がこちらを見下ろし
ている。気味が悪くなって、彼は月から小屋に戻す。
 周囲は木々や下草が覆い茂ってほとんどの視界を塞いでしまっている。
 建物が建っている場所から木が生えてくるわけがなく、木が生えているその
上に建物を建てることは不可能だから当然といえば当然な光景なのだが。
 この場所は、まるで。
 その空間だけが月明かりを浴びることを許され。
 木々が月明かりを避けているような。
「まさか、ね」
 独りごちる。
 つぶやいてから――苦笑した。記憶をなくす前の自分は独り言を口にするよ
うな人間だったのだろうか。
 ひとりでぶつぶつ話しているところを他人に見られでもしたら、まあ、こん
な山奥みたいなところに人がいるはずは
 そうだよ。
 大事なことに思い当たり、彼は自分の馬鹿さ加減に辟易としはじめる。記憶
をなくす前の自分は随分と頭の巡りが悪かったのかもしれない。もしかしたら
記憶をなくしたから馬鹿になったのかもしれないが、今はどうでもいい。
 他に誰かいないのか。
 どうして今の今まで、真っ先に思いつかなかったのだろう。逆に疑問だ。
 誰か他の人に聞けば、現在の状況が分かるかもしれない。自身に自身の情報
がないのなら、他人から情報をもらえばいいじゃないか。
 ガレージを見やる。左腕が疼く。
 なだめるみたいに左腕を撫でる。疼きはすぐに止んだ。大丈夫、何もない。
起こるはずがない。記憶をなくしたって、知識はなくしていない。この現実に
幻想≪ファンタジー≫はない。あるのは唯一無二の現実性≪リアリティ≫だけ。
 緊張なのか、警告なのか自分でも判断できないが。たぶん気のせいだろう。
 背筋が冷たい。寝転がっているときに服が濡れたせいかもしれない。
 厭な予感がした。







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